昭和41年04月19日 朝の御理解



 忙中閑ありというような言葉が御座いますですね。どんなにあっても忙しい中に、だんだんゆとりが出来てまいりますと、忙しい中にも、暇があるというので御座いましょうね。心豊かに日々の生活が出来る、おかげを頂きたい。どういう中にあっても、和らぐ喜ぶという心の状態を頂いて行きたい。それにはどうしても、信心が本当に自分のものにならなければいけない。
 信心が自分のものになる、本当の信心生活が出来る所に、いわゆるその忙中閑ありと云う様なゆとりもおかげも頂けれると私は思うのです。皆さんあの入れ歯をなさった方は、体験が御座いますでしょうね。何かしらんけれど、今まで悪かった歯が綺麗に入れ歯が入れ替えられるので御座いますから、今まで食べられなかったものが、食べられる様になる。けれども、何かしらんけれども、他所から借って来た様な感じが致します。
 もう、一時ばかりは、あすこ何カ月間かというものは、そこんところに意識を致しますと何時もこの、やっぱ自分の歯が、一番良かと言う風に申しますね。あれはね、あれはまぁだ自分の物になっていないからですよ。信心も、自分の物になってしまうまでが私は、おかげだとこう、それまでが、私はやっぱり辛抱だと思うね。そしてそれが、半年一年たって行く中にです。
 むその入れ歯が自分のものになってしまうともう、そういうぎこちない不愉快さとか、不自然さと云った様な物がなくなってしまうでしょうが。信心もやっぱそこまで行かにゃいけません。只、信心を何十年しておるから、なら信心が自分のものになると云う事ではありません。何時の間にかそれが身に付いて来るというのではありません。本当に本気でです。どの様な場合でも、どの様な場合でもね。
 暇な時には教えを行ずるけれども、忙しい時にはもう忘れっしもうてから教えを行じていないと云った様な事ではいけんのです。そうでしょうがね。本当に忙中閑ありというおかげを頂きたい、自動車を運転される方達が言われますね。どういう大きな自動車を例えば、運転致しておりましても、それがも、自分のものになってしまう。もう自分の体の一部の様に自由自在に、例えば手を動かし足を動かしする様にです、自動車が使えれるようになったら、ああもう、いわゆる本当の意味での一人前だという訳なんです。
 自動車と自分とが何時もまぁだ、こう離れておる、ぎこちないけれどもその、ぎこちないながらでも、いわゆる本気で信心の稽古をさして貰わにゃいけんね。どうでしょうかね。本当に、只今申します様に信心の教えというものが、自分達のものになっね、それでその入れ歯をしておる歯が、半年一年たって行く内に、もう、自分のものになっしまう様に、大きな自動車がです。
 段々ベテランになってまいりますと、もう自分の手足の様に、自分の体の一部の様に自動車が乗りこなせると云う事でございますけれども、そう云う様に、どういう難しい事でも、その中に教えを行じ抜かせて頂けれると致しましたらね、いよいよ忙中閑ありと云う様な、ゆとりのある有難いおかげが頂けれるとこう思うのです。今朝から私、その事を頂くんですね、忙中閑ありという文字でと頂くんです私それが貴方達は、そんな読み方ですか私はですか。
 そのこう、いわゆる漢文でこうね、書いてあるですから、そういうその忙中閑ありと言った様な、ゆとりのある信心がです、出来る為にも皆さん何十年信心しておるから出来ると云う事じゃ決してないですね。本気で例えばその自分のその入れ歯なら入れ歯というものをです、本気でこう毎日使っておる。毎日使っておる所に何時の間にか、その入れ歯が自分のものになっしまうようにです。教えが行じられなければ、本気で使えれなければ、それははじめの間はぎこちないですよね。
 例えば御地内をみたりにけがすなよという、なら御教え一つでもですね、何十年たったっちゃ一つも行じらなかったらですね、やっぱり平気で、御地内をけがしておる。金光様の御信心させて頂きながらですね、御地内に汚いものを、平気でまき散らしたり、つばを吐いたり、子供に外でしょん便をさせたりしておる様な人がいくらもあります。しかもあの人は何十年の信心をしておる人が、信心が自分のものに教え、が自分のものになっていない証拠なんです。
 ですからその事を本気で行じるのですね。例えばたんを吐きたい、つばを吐きたいと云う様な時です、ぱあっとその、今まで吐きよったのが、ああ、御地内を汚す様な事ではでけん。天地の親神様を拝まして頂く私達が、例えば、御地内を平気で汚す様な事であってはならん。何故かって言う事は、分らん私共はけれどもです、御地内を信心する者は、御地内をみだりに汚すなよと、おっしゃるのじゃから、本気で素直で御地内を、みだりに汚す様な事があったゃならん。
 いや皆んな、汚しておる者があるならば、そこの御地内を言わば、きよめるくらいな気持ちがなからなければ、おかげになりませんね。その教えが、自分のものになると云う事には、始めの間は、ぎこちないです、やはり。ところがなら、私共何十年間という間もこの、ま、御教え一つでもです、それをやかましく言われてきた、ああ、外で小便やらまっちゃでけんち、も、子供の時から言われて来たね。始めの間は出来なかったり、出来たり、出来なかったり。
 ぎこちなかったんだけれども、現在の私共では、もう、御地内をみだりに汚がすと言った様な事やらの御教えは、もう、身に付いてしまっておる、も、何時の間にかね、それこそ人が汚がしたり、汚したりしておるとですね、本当にちり紙を持っとるなら拭いて廻りたいごたる気がする。 いや、それが出来ぬにしてもです、何にも解らぬ氏子がです、御地内をみだりに汚がしておりますと、どうぞお許し下さいとその氏子の為にお詫びしてやれれるような心も。
 それはどういう忙しい時であっても、そういうゆとりが心の中にあるんですね。食物を大事にする。もこれはも私の少年時代からですけれども、もここも努めたらどういう忙しい所に行きよってもです。例えば自転車に乗ってまいりよりましても、お米が散らかってこぼれております、矢張りそれを拾らわなければおられなかったです。私はですからも、その沢山みんなを拾うてしまう訳にはまいりませんから、せめて三粒でも拾うてその言わば、その心を現して行くこの事を私行じ抜かせて頂いてきました。
 それが今は、もう自分のものに、なりきっておるという事ですね。信心をさせて頂いておって、どの御教えが、自分のものに、なってきりきっておるか、血肉になっておるかというて、一つも行じてはいない。一つも教えというものを、頂きよるばってん、自分のものになっいない、と云う様なです。こころ。はなれた事で、本当なおかげを頂けれるはずはない。閑中忙、忙中閑あり、と云う様なその事を、頂いたのは、そう云う様な事ではなかろうかと思った。
 そして、私がこの頃から入れ歯をさして頂いて、も、始めの間は、も、自分の歯が一番良かと思いよったけれども、この頃では、それを感じなくなって来た。毎日、毎日、使うておる中にです、やっぱ昔から、自分の歯の様にそのなんにも感じないで、使わせて頂けれる様になって来た。そして私は、昨日病院にまいります時には、親先生が大きな車で私を送って下さったんですけれども。
 その時に親先生が言っておった事をほっと思い出した。もう自動車の丁度途中で事故があって、田の中にひっくり返っておりましたもん、それを見てから、親先生が言われるんですよ、本当にもう、自動車がですね、もう、いよいよ自分のものになってしまう、もう、自分の手足に様に運転が出来る様になったら、一人前ですけれども、中々その、そこまで行けないと云う様な事を話しておった事を今朝から思い出させて貰って、今朝の御理解に頂いておる訳です、ね。
 もう、教えが自分の手足と言うとおかしいですけれども、自分のものになってしまうと云う事ね。為には、例えば、なら、御地内をみだりに汚がすなよと言った様な事でも、始めはぎこちなくて、もう、それこそ行じて行きよる中に、何時の間にか自分のものになってしまうのですよ。そこに、いわゆる忙中閑ありという、ゆとりのある有難い生活が出来ると云う事になります。
   どうぞ。